安藤尋監督インタビュー(2)


2015年10月6日(火曜)、9日(金曜)、10日(土曜)の3日間開催される「俳優のための実践的なワークショップ」の講師である映画「海を感じる時」の安藤尋監督にインタビューをしてきました。前回の第1弾につづき、今回は第2弾です。ワークショップに参加する方、ぜひ参考にしてみてください。(聞き手:ワークショップ主宰・松枝佳紀)ワークショップの詳細については→安藤尋監督による俳優のための実践的ワークショップ

安藤尋監督インタビュー第2弾

聞き手:ワークショップ主宰・松枝佳紀

 第1弾はこちら→

松枝  リハーサルをやらないとすると、極端な場合、俳優とは撮影当日に現場で会うのが最初というようなこともあるわけじゃないですか。そういう場合に、俳優さんのもってきた演技が、安藤さんの想定しているものと大きくずれていたらどうするんですか?

安藤  僕なんかが一番気になっちゃうのは、やりすぎな人なんです。自分のお芝居の「間」とか「感覚」がもうできあがっちゃっている人には、その人の持っている呼吸をどうずらすかというのをいろいろ試してみますね。

松枝  具体的にはどんなことをするんですか?

安藤  「間」をあけて相手を意識して、みたいなことはよく言いますね。で、ネットに、安藤の映画は「間が長い」とか悪口書かれちゃったりするんですが(笑)、僕なんかの生理からすると俳優部さんたちのやりとりって早いんですよね。異常に早く見えるし、早く聞こえてしまう。台本に書いてあるからそういうスピードで話せるんだろうと思ってしまう。そこに生きてない。そこに生きていれば、そんなに早く話せるだろうか?と思ってしまう。ちゃんと聞いて、ちゃんと感情が生まれてから話して欲しいんですよね。

松枝  たしかに「的確に表現をしようとする」俳優さんが多いような気がします。「生きること」よりも「表現すること」を優先しちゃっている。

安藤  そうですね。それはすごくありますね。だから、僕はよくそういう俳優には、相手を傷つけないように、「サービス精神旺盛だよね」、「サービスしすぎだよ」と言ったりします。サービスをしない芝居の、究極の理想は、たとえばブレッソンの映画みたいな感じなんだろうなと思います。あれはいつ見てもこういう映画撮れたら理想だろうなと思うんです。あそこまで無表情で無くてもいいだろうとは思いますが(笑)俳優側からの自家発電的な表現欲求(つまりサービス)を削いだ究極はブレッソンの映画だと思います。

松枝  テレビドラマ的な芝居はサービスを多めに要求するような気がします。日常的な「リアル」だけでは伝わらないんじゃないかという作り手側の恐怖が、的確な表現をさせてしまっている。

安藤  そうですね。そう思います。でも、その一方で、僕は、どっかで「リアルなおしゃべり」みたいなものが嫌いなんです。

松枝  でも、安藤さんの映画は非常にリアルだと僕は感じますけど・・・

安藤  リアリティーは求めているんです。ただそれはあくまで映画のリアルなんです。日常会話のリアルじゃないんです。たとえば、あるじゃないですか、日常会話では、言葉がかぶったりするだろ、みたいな。それを俳優のアドリブを含めて表現しようとする監督っていると思うんですよ。でもそう言う映画を見ると、リアルをやろうという余計な意気込みがみえてしまって、逆にリアルから遠ざかってるんじゃないかみたいな気がするんですよね。そういった映画の画面には、「リアルに挑戦する2人の俳優さん」しか映って無いみたいな。映画のリアリティーってそうじゃないと思うんですよね。僕なんかが向かうリアリティーの方向は「どう密度を作るか」という方向なんです。その時には、日常会話的なリアルは捨ててもいいんです。

松枝  すいません。ちょっと待ってもらってもいいですか。僕は、「blue」でも「海を感じる時」でも「ココロとカラダ」でも、安藤さんの映画の芝居は、日常的な意味においてリアルだと思うんです。そのことと、今の安藤さんの言っていることが僕の中でうまくつながらない。どうにかしてそこをつなげたいんですが…。もしかすると、監督の映画のリアルは、監督の指定では無くて、俳優が選択したものだとか、そういうことはありますか?

安藤  「海を感じる時」の場合ですが、リハーサル嫌いの僕がリハーサルをやろうとしていたんですが、市川さんがインフルエンザになって全部すっとんじゃったんですね。本読みもできなかった。だから初日の、「おはようございます」という時に、はじめて市川さんの生の声を聞いたんですよ(笑)、池松さんも。だから、そこではじめて、「ああ、こういうトーンなんだ」って思ったんです。で、花屋のシーンから撮影は始まったんですが、「これ、違うよな」と思いつつ、でもどうしていいやらという感じで、池松さんとのシーンならなんとなく分かるんですが、花屋のシーンてどんな感じなんだと俺も良くわからなくて(笑)、で、その日の最後に、花屋の後輩の女の子と飲み屋でずーっとしゃべるというシーンがあったんで、そこでだいぶ長い芝居をやらせて、テイク10とかそんぐらいまでやらせたんですね。それでようやくつかんだんです。テイクの初めのうちは、彼女たちは、「リアルな会話」をしていたんですが、その「リアル」が、どこで培ったかわからないんですが、通俗的なリアルだったんですよね。なんか。

松枝  ああああ、つまり、受けのいい、映画を見ている皆が欲しがるリアル、馴れたリアルっぽさを演じているってことですね。

安藤  そうそう、そうなんです。でも、「海を感じる時」という映画に必要なのはそういうリアルじゃないんです。日常って、たとえば、いろんなことを同時に考えてるんですよね。こういう会話をしても、頭のどこかで別のことを考えていて、話も色々とっ散らかっちゃっている。でも、僕なんかからすると映画ってそうじゃないんです。もう頭っから最後まで決まってる。そのシーンが始まったらどっかに向かうっていうのは決まっているんです。だから、そこに対する集中度というのが、まったく非日常的なほどに欲しいんですよね。

松枝  なるほど!わかりました!映画が日常と一緒でとっ散らかっちゃっても仕方がないってことですね。安藤さんの言っている、日常会話のリアルから離れた映画のリアルっていうのがようやくわかりました。よく考えれば、日常の2時間てロクでもないですからね。それを再現しても仕方がないってことですよね。映画の2時間て、もっとありえないほど濃い。

安藤  そうそう、そうなんです。映画の2時間は、下手をすると、宇宙人がやってきて、人類の存亡をかけた戦いがあって、宇宙人を倒して、地球が平和を取り戻すような2時間なわけです。わき道にそれている暇は無いんです。たとえば、アパートに居る二人がお互い見向きもしないでそれぞれ別のことをやっているシーンだとしても、そこには絶対的な意味がある。そのシーンが始まる前と、そのシーンが終ったあとには何かが変わっているわけです。じゃなかったらそのシーンはいらないわけで、いらないなら監督か脚本家がオミットしているわけです。でもそれが台本に残っているってことは、そのシーンでの会話が何気ない天気のことについての会話だとしても、天気のことをしゃべることで、何か別のことをしているわけで、たとえば「天気いいね」という言葉が、相手の心をグサッとナイフのように刺しているのかもしれない。その結果、その映画のラストに向けて一歩確実になにかが進んでいる。それは日常的なお天気の会話から外れて、ものすごい集中した何かなわけです。

松枝  ワークショップをやっていて、ピントがずれている俳優というのが居て、それは演ずるべき役の目的の優先順位を間違えている。人間は通常いくつもの欲求を同時に持って動いている。でも映画で表現すべきはその1番目の欲求、たとえば「娘を助けたい」なんですよね。それを6番目ぐらいにある欲求、たとえば「何か食べたい」をクローズアップして表現されても困る。

安藤  そうなんです。映画のリアルを俳優が実現するためには、その映画がどういう感情に向かって集中して行くのかということを見極めて、どうやってそこに集中して行くかという筋立てを分かってないといけない。でも普通の人間というのはそうやって生きていない。だから、そう言う意味で言うと、僕の求める演技は「非リアル」なんですよね。

松枝  でも、リアルなんですよね。だから説得力がある。つまり「非リアル」だけど、それを「リアル」と接続して行ける俳優が、安藤さんの映画に必要な俳優ってことになるんでしょうね。

安藤  はい。そう言っていいと思います。

第3弾につづく

ワークショップの詳細については→安藤尋監督による俳優のための実践的ワークショップ