安藤尋監督インタビュー2017


2017年11月24日(金)、25日(土)、12月1日(金)、2日(土)の4日間で行われる「安藤尋監督による俳優のための実践的ワークショップ」に向けて、講師である安藤尋監督にインタビューをしてきました。安藤尋監督の俳優観、演技観がよくわかりますし、ワークショップで何をしたいかがわかりますのでご一読ください。
聞き手は、アクターズ・ヴィジョン主宰・松枝佳紀と、アシスタントの及川です。

(1)映画「月と雷」がヒットしているのは、逆「寅さん」だから!?
(2)ヒロイン初音さんの「思い」を貯めるために順撮りにした。
(3)俳優たちを解け合わせる秘訣
(4)本当に「生きる」ことのできる俳優を見つけ出すためのワークショップ

◆映画「月と雷」がヒットしているのは、逆「寅さん」だから!?

松枝:現在上映中の映画『月と雷』(原作:角田光代)が評判も良く、また成績もよいそうで、おめでとうございます。

安藤:ありがとうございます。

松枝:こんなに大ヒットすると思って作られていたんでしょうか?

安藤:最初に話をいただいたときは、小説としては大変面白いのですが、どう映画としてまとめあげるか、なかなか難しい原作だと思いました。小説としての完成度が高ければ高いほど、映像にするのは難しいですね。

松枝:それをどのようにまとめあげたのでしょうか?

安藤:基本的には、脚本の本調有香さんにお任せしました。僕なりの映画のイメージは、人生からの脱落者、ドロップアウトした人間たちが集まって、また離れていくなかで、そうした人たちの「それでも生きる」姿というものを描きたいなと。ドロップアウトしてしまった人たちの映画って、最近ではあまり見ないし。

松枝:でも本当に、この映画みごとにドロップアウトした人たちだらけなんですよね。というかそれ以外の人が出てこない(笑)。みんな「壊れている」人たちなんですよね。

安藤:(笑)

松枝:昭和の時代にこんな「壊れている」人たちはいなかったので、これが20年前とかだったら、理解されない話なんじゃないかと思うんです。(原作を手にして、巻末の初出を見る)やっぱり、最近の作品なんですね、初版が2012年7月とあります。

安藤:5年前ですね。雑誌初出は確か2009年です。

松枝:僕のような昭和の人間からすると、最近の若い人たちは、みんな「ぶっ壊れている」ように見える。「ぶっ壊れた」奴しかいない(笑)、子供のころから家で食事をせずにファミレスでしか食事したことがなかったり、映画にも出てきますが毎食お菓子を食べるのが平気だったり、本当に「ぶっ壊れ」ている。「ぶっ壊れた」政治家を応援する「ぶっ壊れた」人たちしかいない。そんな現状に、僕は本当に絶望的になるんですけど(笑)

安藤:(笑)

松枝:この映画が、そういう「生活」のできない「ぶっ壊れた」人たちの話なんだなと思った時に、なんてすごい「現代」を射抜いている映画なんだろうと思って、だから、この安藤さんの映画がヒットしているというか、受け入れられているんだと、納得したんです。

安藤:いまの話、僕は面白いんですが、僕は松枝さんの見立てとはちょっと逆で、現代の人は、たしかに松枝さんの言う意味で「ぶっ壊れ」は増えているのかもしれないけど、逆に「保守的」になっているなと思っていて…。僕の学生の時は、経済的に言うと、バブルの真っ最中で、その頃のほうがよっぽどいいかげんでひどかったと思っている。政治にも関心なくてみんなノンポリで、就職だっていつだってできるぜ、みたいな時代だった。それから比べると、現代は格差が激しくて、むしろまっとうに生きたい、道をはずれちゃいけないとみんなが思っている時代になっているように思うんですね。そういう意味で、この映画に描かれているようなドロップアウトしてしまった人たちに感情移入するのは難しいんじゃないか、現代の人たちはこの物語をどうやって見るんだろうかとどこかで思っていたんです。

松枝:なるほど。

安藤:我々の時代のメジャーなドロップアウトした人って、映画では「寅さん」なんですよね。そして、みんなが「寅さん」を愛したように、かつてはそういうドロップアウトした人を迎え入れる素地があった。フーテンがヒーローになりえた。

松枝:なるほど。たしかにそうですね。基本的には「寅さん」の映画だと、妹のサクラとかが居る「生活」が舞台で、そこに「フーテン」が、たまに帰ってくる、という構造だった。でも、安藤さんの「月と雷」だと、逆に「生活」している人が映画の外にいて、こっち側には「フーテン」しかいない(笑)、まったく寅さんを裏返したような話になっているんですね。

安藤:そうです。そして「寅さん」時代の、つまり昭和の時代には信じられた「生活」という基盤が、いまや全く信じられない時代になっている。だから、昔はヒーローになり得たドロップアウトした人が、実は落ちこぼれに過ぎないことに人々が気付いてしまった。むしろドロップアウトしないで「生活」にちゃんと戻ろうよ、という引力の働きが強くなっているように思うんですね。つまり、みんなが保守的になっている。

松枝:まさに、そうだと思います。

安藤:僕はそこで、ちょっと待てよと。「生活」に戻らなくてもいいんじゃないかと。「そうなるべき」だと声を上げて推奨するわけではもちろんないんだけど、映画の登場人物たちのようにドロップアウトしてしまうことを「肯定」したかったんです。そういう生き方をみんなしろとは言わないけど、そういう生き方を「肯定」したい。すくなくとも否定しない人間でありたいと思ってるし、観客にもそういう自分の思いを伝えたかった。最初は、あのドロップアウトした人々に同情できなくとも、最終的には、まあ、居てもいいんじゃないかと、あるいはあのダメな人たちもちょっと愛しいじゃないかと、そんなふうに思ってもらいたい。そういう思いであの映画を作りました。

松枝:そういう意味では、あの映画がヒットしているというのは、安藤さんの思惑通り、ドロップアウトもありなんじゃないかと思ってくれた人が多いってことですよね。明らかに感情移入しづらい人々にたいして、映画の最初には反発さえした人たちが、120分の旅を経て、ちょっとだけ感情移入してくれた。だから口コミで観客が見に来る。それを成し遂げられたというのは素晴らしいことだと思います。

安藤:そうだと良いのですが。
 

◆ヒロイン初音さんの「思い」を貯めるために順撮りにした。

松枝:「月と雷」のヒロイン泰子役ですが、どうして初音映莉子さんだったんですか?

安藤:そもそも「月と雷」の企画自体は、プロデューサーの宮崎さんのほうから提案があって、その時に泰子は初音映莉子さんで考えているというのを聞きました。

松枝:それで決めた?

安藤:いや、本人に会わないとよくわからないので、本人に会ったんです。会ったところ、「あ、この人いいな」というのがありました。芝居がどうのこうのというよりは、普段話している感じが僕としては大事なので、話してみて、ああ、こういう人が泰子を演じるといいなと思えて。彼女は頭のいい人で、脚本は第一稿から読んでもらっていたのですが、泰子という役のことをよく理解していた。彼女の中で「こうしたい」というのがちゃんとあった。現場に関しては、彼女が泰子について考えているものがちゃんと出るといいなと思っていたので、わりと自由にやってもらいました。そして、彼女が考えているものだけではなく、彼女自身が本来持っているもの、たとえば仕草とか、反応とか、体の動きとかが、計算せずに自然に出るといいなと思っていた。監督として、そうなるように注意していただけで、こちらが何かしたということは特になかったですね。

松枝:つまり、泰子像については、監督が初音さんにこうしてくれとお願いしたということではなくて、初音さんが持ってこられたものであるということですね?

安藤:そうです。

松枝:持ってこられたものを見て、違和感というようなものはなかったんですか?

安藤:違和感はなかったです。最初の一日ぐらいは、お互い緊張していたのもあるし、多少「調整」は必要でしたが。

松枝:どこを「調整」したのですか?

安藤:初音さんは当然プロなんで、ちゃんとお芝居をしようとしてくれるんです。でも、そこまでやんなくてもいいんじゃない?と言いました。もっとラフでいいよって。

松枝:なるほど。芝居をしているという意識を取り除いてくれということですね?

安藤:そういうことですね。それで、そう言ったら初音さんも、そういうことなんですねと、すぐにわかってくれて、あっという間にラフな感じでやってくれるようになりましたけど。

松枝:初音さんの芝居で、「みんな出ていけ」っていうところあるじゃないですか。あれ僕はとても好きなんですが、あれは撮影だいぶ後のほうですよね?

安藤:ええ、あれは結構後ですね。

松枝:そうですよね!だって、あれって、みんなに対する不満が溜まってないとできないじゃないですか?

安藤:そうですね。チーフ助監督も気を遣ってスケジュールを書いてくれたんで、あれは結構最後の最後に撮影しました。

松枝:ちゃんと初音さんの不満がたまるようにですね。

安藤:そうです、そうです。

松枝:順撮りに近い形で撮っているんだろうなと思いながら見てましたけど。

安藤:そうですね。そんなに時間的にも予算的にも余裕があるわけではないので、完全な順撮りではないんですが、それでも、初音さん演じる泰子の中の変化を丁寧に作り上げるように、ブロックで考えると、大まかには順撮りに近くなるようにしてくれましたね。

 
◆俳優たちを解け合わせる秘訣

及川:あの、質問してもよろしいですか?

安藤:はい、どうぞ。

及川:私も「月と雷」面白く拝見させていただいたのですが、登場人物のそれぞれが、皆さんそれぞれ違う生活の臭いというか、人生の臭いをまとって演じられていたように思うのですが、あれは皆さんどうやって役作りをなさったんでしょうか?

安藤:僕からこうしてくれとはあまり言ってないんですよね。割とみんな自分で考えてプランを持ってこられていました。たとえば草刈民代さんなんて、話し方から、歩き方から、全部自分で作ってこられている。たとえば、この人はこういう人で、こういう時にはこうしているはずだというのをご自分で考えてこられている。あとは、その考えてきてくれたことと、その演じる個人の持っている良さをどう出すかだと思うんですよ。その人のプラン、プラス、その人の個性というか。

及川:不思議なのは、そうやって個々人、バラバラに作ってこられた芝居が、見事に一つに溶け合っているように見えたことなんですが、それはどうやって達成されたんでしょうか?

安藤:それは、おそらくですけど、溶け合っているように見えたのは、俳優それぞれが結局「自分でやってる」からだと思うんですよね。「演じている」というよりも、「その人がもともと持っている何か」でやってたからだと思うんですよね。たとえ、役柄が「本人とは全く違う役柄」だったとしても、みんな「本人から出てくるもの」でやっている。俳優に限らず、人間と言うのは、目の前の人に反応しながら、キメ細かに自分の感情や動作を微調整しているわけじゃないですか、普段から。微調整できるから溶け合うわけです。だから本人のまま普通にやってれば、なんの苦労もなく調整も必要なく「溶け合う」はずなんです。ところが、俳優たちが型(かた)で芝居をやり始めると、このふつうの人が普通にやっている微調整が起こらなくなるわけですよ。つまり溶け合わなくなる。だから、俳優たちには型(かた)で芝居をしないでほしいと伝えるのですが、しかし、どうしても本人から「自分」が出てこないとすると、映画を撮るために、どっかで型(かた)に持っていかなければならなくなる。だけど、それをやっちゃうと、普通に起こるはずのきめ細かい微調整が起こらなくなり、結果、誰とも溶け合わなくなる。今回、溶け合って見えたとすると、みんなちゃんと「自分」を使って演じていたから、ふつうの人がふつうにやってる微調整が現場で起こり、溶け合ったからなんじゃないかと思うんです。

及川:なるほど。

松枝:俳優たちは初音さんに限らず、ご自分の演技プランをみんなご自分で持ってきたということなのですが、ちなみに、安藤さんが、その俳優たちが持ってきたプランに最初に出会うのはどこなんですか?

安藤:基本的には「現場」ですよね。本読みで出会う時もありますが、今回は本読みが無かったので、「ああこの役はこうやって話すんだ」と「現場」で知ったんです。

松枝:ええっ、それは結構スリリングですよね。

安藤:草刈民代さんがどうやるかはそれこそ本番までわからなかったのですが、やっていただいたのを見たときに言葉を失いました。さすがだと。

松枝:いや本当に草刈民代さんは凄かったですよね。その存在で、いろんなことを納得させてくれる。映画の中で、木場さんが「俺にはもったいねえ」って言うでしょ。もうね、その女が草刈民代さんだから、美しいから、見ているこっちも「ああそうだねえ」ってなる。木場さんの気持ちにシンクロできる。これはもう草刈さんの役作りってことではなくてその姿そのものからくるものだからあれだけど、本当にあの女の人の役が草刈民代さんで良かったと思った。料理が下手そうな感じとかね、たぶんご本人は料理作るの上手いんだろうけど、ちゃんと料理下手な人があそこにいた。

安藤:すべてにおいて説得力があるんです。それは、普段の草刈さんとは全く違う役だけど、草刈さん本人の何かが、ちゃんと消えずに芝居の中で「反応」しているからだと思います。

松枝:草刈さん的にもこの役に出会えてよかったと思っておられるんじゃないですかね?当たり役と言いますか、僕はこの役の草刈さんが見られただけでも良かったというような気がしています。

安藤:だといいですけどね。

及川:事前に、ワークショップのようなことで、俳優同士の演技を調和させるような場所はなかったということなんですね?俳優たち同士で稽古をするというような場とかで。

安藤:そうですね。そういうのはなかったですね。

松枝:そのような事前調整の場所がなくても、現場でいきなりのガチンコで、俳優たちが噛み合うっていうのは何なんですかね?

安藤:草刈さんとか、あれだけ作ってるんですけど、どっかで委ねてるんですよね、相手に。委ねられる。相手に委ねることができる。それって、とても大事なんです、その場に自分が居られるために。居られない人っていうのは自分の芝居で手一杯なんですよね。

松枝:ああ、手放せないんですね。

安藤:そうそう。手放せない。それはすごくありますよね。

松枝:矢崎仁司監督の「無伴奏」の現場で池松くんと話したときに、池松くんが言っていたんですけど、「プランは徹底的に考えていくけど、現場に行ったらプランを手放して、相手にゆだねる」って。

安藤:まさにそれです。芝居の稽古で何かが見えても現場でやれるとは限らない。ということで言うと、音楽で言うところの最初のセッションの場所はやっぱり「現場」なんですよね。その場でどんだけ相手と自由な関係を結べるかが鍵なんです。プランを作ってくるのはいいですけど、そのプランを外すとガタガタになっちゃうというのは困りますよね。相手がプラン通りの芝居をしてくれるとは限らないので。大事なのは、他人に対してちゃんと開けるかどうかってことなんですよね。自分をさらけ出せないとダメだと思うんです。

松枝:今回のワークショップでは、最初の二日やった後に一週間あけるじゃないですか、その時に、恐ろしいのは、稽古しちゃってきて、芝居がガチガチに固まっちゃったものを持ってくるとすると、安藤さんのやってほしいこととは真逆のことになってしまう。そうなってしまうのが何組か居そうで怖いです(笑)。

安藤:ああ、それは困りますねえ(笑)

松枝:そういうことが起こらないように、先日やった水田伸生監督のワークショップでは、当日になるまで誰と組合せになるか分からないようにしたんです。だって、プロの現場ってそうじゃないですか。相手役と事前に稽古する時間とか無いんですよ。それは現場が貧しいから稽古しないんじゃなくて、映像的な新鮮さを保つためには稽古をしないほうが良い。積極的な稽古放棄です。

安藤:読み合わせ稽古みたいなのは必要ないですね。役を「生きるための準備」は必要なんだと思いますけど。

 
◆本当に「生きる」ことのできる俳優を見つけ出すためのワークショップ

松枝:今回、ワークショップをやっていただく目的は、皆の演技力を上げるための指導をしていただくことが目的ではありません。それは監督がたのお仕事とは思っていませんので。もう、これはお願いベースでしかないのですが、できれば、安藤さんの次回作に誰かを連れて行ってやってほしいと思っています。しかもできればメインに近い役で。もちろん、それにふさわしい参加者がいればですけども。

安藤:こちらもそのつもりでお受けしています。ワークショップは、実際に俳優たちと出会って、いろいろ試せるということでは、大きい意味があると思っていますから。いくら宣材みても判らないですからね。あの紙っぺらと写真じゃ。全然写真と違う人も居るし。

松枝:僕としては、アクターズ・ヴィジョンを新人俳優とかを世に出す場所にしていきたいという野望があるんです。そうやっていろんな奴が出てきたほうが、日本の映画は面白くなると思っているので。

安藤:それは本当にそうですね。そういう意味で言うと、ワークショップでは演技ばかりを見るんじゃなくて、どういう感受性を持った人なのかを見たいですね。

松枝:感受性ってどうやって見抜きますか?

安藤:たとえば、誰かと芝居をやっているときに、「誰か」にどういう反応を示せるかというのが感受性だと思うんですよね。「私が、私が」というのや「俺は、俺は」というのをいかに外せるかということだと思うんです。実際「私が、俺が」というヤツは普段話していてもそうで、自分のことしか話さない。「いいよ、もう、うっとおしいよ。ひとりで鏡としゃべってろ」ってなる。

松枝:(笑)それは先ほど言ってたことにもつながりますよね。プランは考えてくるけど、相手を目の前にしたときに、プランを捨てて、相手にゆだねるということを、いかにできるかということですよね。その状況や、相手を楽しめるかどうかということ。

安藤:芝居もできないのに酒ばっかりついでくるようなヤツらとかいらない(笑)

松枝:僕は絶対女優にはプロデューサーや監督に酒はつぐなと言っています(笑)

安藤:本当です。こちらは女子力を見ているわけじゃないんで(笑)

松枝:酒をつぐっていうのは、芝居以外のことで気に入られようという小さい枕(営業)なんですよね。

安藤:その人がどういう芝居をするかというのは、芝居を見るよりも、会話すると判ると僕は思っているんです。人とどういう会話ができるのかというのを見たいし、どういうコミュニケーションをとる人なのかが知りたい。ただ、どういうコミュニケーションをとる人か知りたいと言っても、僕と仲良くしてくださいということじゃない。非常に失礼な女の子がいたとしても、ある役にはその失礼な感じがぴったりかもしれない。失礼なコミュニケーションしか取れない、というのもある意味、立派なコミュニケーション。「私が、俺が」はコミュニケーションじゃなく、ただの自意識。

松枝:本人がどういう人なのかというのを隠さず出してくれってことですよね。

安藤:そうそれが一番です。なのにお芝居をすることで、どんどん自分を隠していってしまう人も居る。そういう自分を隠すための芝居をする人は結果いい方向に行かない。

松枝:型を崩して、本人で居て欲しいですよね。とくに安藤さんの映画では。

安藤:型は崩してほしい。けれどもアドリブはしてほしくない。こんなセリフぶっこめる俺凄いでしょみたいなアドリブされたら、お前帰れと言いたくなる(笑)いらないセリフを言ったり、しないでもいいアクションをするアドリブは全くいらない。

松枝:そういうアドリブは、ご本人が役を判っていないことの表明でしかないですからね。

安藤:そうそう(笑)

松枝:二年前にやっていただいたワークショップで印象的なのは、なんでも具体的にしようということで、芝居中に食べるご飯を毎クラス五合炊いて、鮭の切り身も全員分用意したという(笑)あれはスタッフ総動員でやりましたけど、本当に大変でした。けれども、やっぱり本当に食べながらやる芝居はいいですもんね。演劇だと、シーンに出すものをはけたりしなければいけないから、エアーでやるというのはありますけど、映画はエアーでなかなかやらない。

安藤:「エアー芝居の達人」が問題なのは、例えば「本物の蛇口」をひねってもエアーに見えるんですよね。もう、蛇口をひねる芝居がひとつしかない。目の前の「本物の蛇口」が見えてない、というかひねれない。

松枝:ああ、わかります。「概念としての蛇口」をつかんでるんですよね。その場にある「個別の具体的な蛇口」をつかんでいるんじゃなくて。

安藤:そうなんです。ここでも、人間相手の芝居と一緒なんですけど、「委ねる」ということをしないといけない。芝居というものを自分で何でもかんでも支配しようとすると、すべての芝居がエアーになってしまって、つまり「概念」になってしまって、せっかくの「本物」があるのにその手触りや温度を感じられなくなる。抽象化された芝居は絶対的につまらない。

松枝:本当はね、稽古場じゃなくて、具体的な場所、たとえば家を借りてその家のシーンを本当にそこでやるとかね、そうしたいんですが。

安藤:それはいいですね。

松枝:しかし、そこまでやっちゃうと、もはや撮影したくなっちゃいそうですね。

安藤:たしかに(笑)

松枝:このインタビュー読んで、安藤さんの映画見て、ちゃんと四日間で自分をさらけ出して、芝居の色々なことを抽象的にではなくて具体的に表現できて、安藤さんに使いたいと思わせる俳優が出てきてくれると嬉しいんですけどね。そういう俳優が集まって、安藤さんの作品を彩ることが出来るようになることを目指します。どんな俳優が集まるか安藤さんも期待していてください。

安藤:期待しています。あ、そうだ。言い忘れましたが、最低限の社会的なルールだけは守れる人であってほしいです。シャブ中の自分をさらけ出しますと言われても、困るんで(笑)。

松枝:確かに、事件になっちゃうと映画もだめになっちゃうので、そこはね。ちゃんとしていてください。ですね。

(2017年11月3日、新宿三丁目にて)

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